アニメとゲーム好きなテキトーなブログ

なかなか継続できないけど頑張る

登戸の事件について思ったこと。

今日の朝、登戸で(おそらく)無差別殺傷事件があった。

被害者の方々の一日も早い治癒をお祈りします。

 

さて。

大体事件や事故が起こるとどうしても加害者の人間性はゴミだ、という記事がでやすい気がする。

これは半分正解で半分間違っていると思いこの記事を書く。

 

加害者は四十代から五十代で坊主頭と報道があるが、この男はおそらく社会で人間として生活するにおいてどこかのタイミングで社会に恨み、不快感、やり場のない苛立ちを抱くに至ったのだろう。

その原因は小学生のころのいじめかもしれないし(襲われたのが小学校近くだとこの説は濃厚な気がする)、大学受験の失敗かもしれないし、就活の失敗かもしれないし、十年付き合っていた彼女に振られたからかもしれない。

で、毎回思うのだが、

これらの悩みはおそらく多くの人が一度は経験し、多くの人はそのまま乗り越えていくものだと思う。

問題なのは、もしある人がこれらの悩みを感じ、乗り越えるのが難しいと感じている場合である。

そのとき周りにいる人々は助けを与えたり、言葉をかけたりしたのだろうか。

マザーテレサは愛の反対は無関心と言った。

この言葉は僕が二十年生きている限りは正しいと思う。

周りの人は、この事件の加害者を悩みを乗り越えられない不幸な人と認識しまったく助けを与えることはなかったのではないか。

もしそうだとしたらこの人のせいにして終わりでいいのだろうか。

例えば秋葉原の無差別殺傷事件で逮捕された加藤智大は逮捕されてから報道やドキュメンタリーで、彼の母親の異常性やこんな悩みを抱えていたのではないかといった情報が流れた。

いやいや周りの人に取材してわかったなら周りの人は彼の悩みを無関心に放置したってことですよね?

もちろん事件を起こした彼は重罪に処されるべきだが彼の周りの無関心な一般市民は無罪なのだろうか。少なくとも僕はそうは思わない。

他にもオウム関連事件の加害者は自身の悩みを解決してくれる人が周りに宗教しかなく麻原に帰依することになったと解釈すれば、(少なくとも)麻原以外の死刑となった人達には同情の余地があると僕は思っている。

 

話を皆さんへ振るが、全員が悩みをかかえて生きていることだと思う。この御時世に悩みを一切抱えていない人間は皆無と推察される。

僕はそんな皆さんが全員犯罪者予備軍だと考えている。こんな悩みが多い世の中で悩みを相談するすべもなく、ああ、もういいやって思った瞬間に人は犯罪者になってしまうんじゃないかと僕は思う。

僕が言いたいのは誰かに相談しようということだ。話が通じる人がいなかったり、結局それって自己責任じゃね?って言ってくる人もいるだろう。

しかし自己責任と片付けようとしても人は何かしら失敗する。というか何十年も生きてきてこれは失敗だったという経験をしていない人がいればその人は何も行動していないこととイコールだ。

まずは失敗した事実を受け入れて、それは自分がまがりなりにも行動した結果なんだと自信をもっていくことが大切なんだと思う。

 

皆さんが犯罪者にならないように、皆さんの明日が今日よりもより良い日になることを願ってこの辺で記事を終わりにしようと思う。